のじへ
(注意! この記事は執筆時点より未来のC&Cの状態を描いたものです。したがって現実との摩擦を生じさせないように、内容と掲載時期については慎重に検討してください。)「C&Cのチーム制」C&Cでは依頼者様が抱えられている問題をチームで担当させていただております。チーム制を採用しておりますのは、カウンセラーが一人でケースを受け持っていると、事案の分析と解決策の提言が主観的なものになってしまい、依頼者様の問題について客観的な改善を図ることができなくなってしまうからです。他方で、およそ複数の担当者が依頼者様のケースに関わっていますと、責任の所在が不明確になる恐れもあると思われています。C&Cでは依頼者様と直接面談する者の他にも、ケースの検討に複数の専門家が(依頼者様の同意を得て)参加しております。C&Cの強みは、ケースの検討に心理学や哲学の専門家が参加することで多角的な観点から事案を分析できるということです。ところが、複雑な事態になればなるほど、専門家の間で判断が分かれることもあります。そのような場合に、C&Cとして特定のケースに関する一義的な解答を依頼者様に示すために、C&Cの内部での見解を(両論併記の場合もありえますが)統一する必要があります。そこでチーム制を採用すると同時に、チームの責任者も必要になってきます。C&Cでは、チームの責任者のことをCD(Case Director、ケースディレクター)と呼んでいます。CDは一つ一つのケースの解決策について依頼者様に対する責任を負っています(もちろんC&C全体も依頼者様に責任を負っています!)。より具体的には、CDは一つ一つのケースに関するC&Cとしての見解を依頼者様に提示することについて、責任を負っています。これによって複数の専門家の見解が分かれていたとしても、依頼者様には分かりやすい一つのパッケージとして解決策を提示することができています。依頼者様のご要望は一つ一つのケースで少しずつ異なりますが、C&Cとして最大限のアドバイスを差し上げるように一つ一つのケースに合わせてCDが責任を持って努力して参ります。普段は依頼者様と面談させていただく者はFC(Front Counselor、フロントカウンセラー)ですが、依頼者様のご希望があればいつでもCDと面談することは可能です。事案の解決に責任を持って取り組むことができる者をCDに充てておりますので、CDとの面談によって事案の解決への見通しについての(C&Cに関する)依頼者様のご不安を解消させることができると考えております。ご希望の場合はぜひFC等にお申し出ください。
sekg3615 09:54 (注意! 今まで「ASDとの付き合い方」という題を利用してきましたが、内容的に相応しいのは、「ASDと定型の付き合い方」なので、今後は後者を利用します。今までのものも後者の表現に改めることを推奨します。)「『正論』との向き合い方(ASDと定型の付き合い方⑥)」ASDと会話している時に定型が感じる気持ちのうちに定型が「それは正論だが」とでも言いたくなるものがあります(ASDでも定型にそういった気持ちを感じさせない人もたくさんいらっしゃいます)。「それは正論だが」とでも定型が言いたくなる気持ちは、ネガティブなものです。定型はそういった気持ちを頻繁に感じていると、そのような気持ちを感じさせる人を避けようする場合があります。ASDと定型の間の摩擦を減らすためには、このようなケースで生じている問題を明らかにする必要があります。なぜ(一部の)ASDは定型にとって「正論ばかり言う」といった感想を抱かれる人物に思われるのでしょうか?原因の一つは、ASDが(定型と比較して)規範性が高い傾向があるからです。ここで規範性が高いというのは、物事をべき論で語る(傾向がある)ということです。この違いは、普通の人が事実として受け入れることでも、規範的に捉えるといった形で現れます。例えば、携帯電話での通話が本当は禁じられている場所で、実際には多くの人が通話してしまっているとしましょう。定型がそういった場所の管理者でない場合、携帯電話で通話している人に通話しないように求めたりしないでしょう。事実上、通話してはいけないというルールは通用していないからです。ところが(一部の)ASDはそこで通話している人に(場所の管理者でないにもかかわらず)通話しないように注意してしまうということがあります。それは、その場所で人は通話しないべきであるという規範に着目して、皆が通話しているという事実には引きずられることがないからです。規範を考える際に事実に流されないということです。これ自体は必ずしも悪いことではありませんが、定型からは「正論ばかり言う」という感想を持たれてしまいます。「正論」というのは上のようなべき論を意味しているのです。
(注意! この記事は執筆時点より未来のC&Cの状態を描いたものです。したがって現実との摩擦を生じさせないように、内容と掲載時期については慎重に検討してください。)「C&Cのチーム制」C&Cでは依頼者様が抱えられている問題をチームで担当させていただております。チーム制を採用しておりますのは、カウンセラーが一人でケースを受け持っていると、事案の分析と解決策の提言が主観的なものになってしまい、依頼者様の問題について客観的な改善を図ることができなくなってしまうからです。他方で、およそ複数の担当者が依頼者様のケースに関わっていますと、責任の所在が不明確になる恐れもあると思われています。C&Cでは依頼者様と直接面談する者の他にも、ケースの検討に複数の専門家が(依頼者様の同意を得て)参加しております。C&Cの強みは、ケースの検討に心理学や哲学の専門家が参加することで多角的な観点から事案を分析できるということです。ところが、複雑な事態になればなるほど、専門家の間で判断が分かれることもあります。そのような場合に、C&Cとして特定のケースに関する一義的な解答を依頼者様に示すために、C&Cの内部での見解を(両論併記の場合もありえますが)統一する必要があります。そこでチーム制を採用すると同時に、チームの責任者も必要になってきます。C&Cでは、チームの責任者のことをCD(Case Director、ケースディレクター)と呼んでいます。CDは一つ一つのケースの解決策について依頼者様に対する責任を負っています(もちろんC&C全体も依頼者様に責任を負っています!)。より具体的には、CDは一つ一つのケースに関するC&Cとしての見解を依頼者様に提示することについて、責任を負っています。これによって複数の専門家の見解が分かれていたとしても、依頼者様には分かりやすい一つのパッケージとして解決策を提示することができています。依頼者様のご要望は一つ一つのケースで少しずつ異なりますが、C&Cとして最大限のアドバイスを差し上げるように一つ一つのケースに合わせてCDが責任を持って努力して参ります。普段は依頼者様と面談させていただく者はFC(Front Counselor、フロントカウンセラー)ですが、依頼者様のご希望があればいつでもCDと面談することは可能です。事案の解決に責任を持って取り組むことができる者をCDに充てておりますので、CDとの面談によって事案の解決への見通しについての(C&Cに関する)依頼者様のご不安を解消させることができると考えております。ご希望の場合はぜひFC等にお申し出ください。
sekg3615 09:54 (注意! 今まで「ASDとの付き合い方」という題を利用してきましたが、内容的に相応しいのは、「ASDと定型の付き合い方」なので、今後は後者を利用します。今までのものも後者の表現に改めることを推奨します。)「『正論』との向き合い方(ASDと定型の付き合い方⑥)」ASDと会話している時に定型が感じる気持ちのうちに定型が「それは正論だが」とでも言いたくなるものがあります(ASDでも定型にそういった気持ちを感じさせない人もたくさんいらっしゃいます)。「それは正論だが」とでも定型が言いたくなる気持ちは、ネガティブなものです。定型はそういった気持ちを頻繁に感じていると、そのような気持ちを感じさせる人を避けようする場合があります。ASDと定型の間の摩擦を減らすためには、このようなケースで生じている問題を明らかにする必要があります。なぜ(一部の)ASDは定型にとって「正論ばかり言う」といった感想を抱かれる人物に思われるのでしょうか?原因の一つは、ASDが(定型と比較して)規範性が高い傾向があるからです。ここで規範性が高いというのは、物事をべき論で語る(傾向がある)ということです。この違いは、普通の人が事実として受け入れることでも、規範的に捉えるといった形で現れます。例えば、携帯電話での通話が本当は禁じられている場所で、実際には多くの人が通話してしまっているとしましょう。定型がそういった場所の管理者でない場合、携帯電話で通話している人に通話しないように求めたりしないでしょう。事実上、通話してはいけないというルールは通用していないからです。ところが(一部の)ASDはそこで通話している人に(場所の管理者でないにもかかわらず)通話しないように注意してしまうということがあります。それは、その場所で人は通話しないべきであるという規範に着目して、皆が通話しているという事実には引きずられることがないからです。規範を考える際に事実に流されないということです。これ自体は必ずしも悪いことではありませんが、定型からは「正論ばかり言う」という感想を持たれてしまいます。「正論」というのは上のようなべき論を意味しているのです。
自閉スペクトラム症(以下ASD)の人と定型発達(以下定型)の人が会話しているときに定型の側に発生する違和感の一つに、次のようなものがあります。それは今ちょうどASDの人が話していることが、少し前にASD人が話していたことと整合的でないと思われるということです。少し前というのは、数日前または数時間前という場合もありますが、数秒前という場合もあります。定型の側にこのような違和感が生じた後で、定型がそのことについて指摘すると、今度はASDの側が何を指摘されているか分からず、違和感を抱くということもあります。この記事ではこのタイプの違和感が両者(特に定型)に生じるのはなぜか、解説したいと思います。
他の記事でASDの特徴の一つとして、大局的整合性の欠如ということを挙げています。大局的整合性の欠如というのは、論理的な矛盾ではないが、普通の人が一貫しているとは見なさないような態度について言っています。定型の人に比べると、ASDの人は大局的整合性に弱く、局所的整合性に強いので、定型との間に摩擦を生じさせることがあります。実はこの特徴が上で言及した違和感とも関係しています(「整合的でない」と思われることからも関係があるだろうということが分かります)。
一般的に、定型の人は、会話の途中で自分が以前に言っていることと矛盾しないように、また矛盾しているように見えないように会話しています。つまり、思ったことを素直に話している訳ではありません。発言内容の抽象度を高めたり低めたりすることによって、自分の以前の発言と整合的になるように話すことは大抵の定型にとって極めて簡単なことです(意識的に行うのは難しいですが)。矛盾しそうになると(矛盾して見えそうになると)留保を付け加えるということもあります。例えば「これは不満があって言っているのではないのだが」といった発言を加えるといったことです。
それに対して、ASDの人はそのような整合性に配慮した発言を行わない傾向にあります。つまり一言一言、他の発言と切り離して発言するということです。残念なことに、ASDの人にとって自然なことでも、定型の人に対してミスリーディングな態度になっているという場合はあります。相手(ASD)を定型と信じ込んでいる定型の人は、相手(ASD)が整合的でない発言をすること、相手(ASD)が整合的でない発言をしていると自分(定型)が解釈することを妨げる措置を相手(ASD)が採らないことから、相手(ASD)が何らかの魂胆を持っていると解釈しがちです。魂胆ということがキーワードになります。ASDの人は(定型と比べて)本当に大局的整合性を持っていない場合があるのですが、定型の人が大局的整合性を補って解釈してしまうということがあります。そのような補われた大局的整合性が魂胆とでも呼ばれるものです。しかしながら、現実にはそのような大局的整合性はASDの側に存在しないので、定型の人の設定するそのような「整合性=魂胆」は誤解以外の何らのものでもありません。
定型の人がこのように「整合性=魂胆」をASDの人が持っていると誤解し始める直前に、定型の人の心には違和感が生じます。これが最初に言及した違和感です。「整合性=魂胆」を補って定型がASDを解釈してしまうのは、心に生じる違和感を解消するためです。魂胆を補って読めば違和感は消える訳です。ただ上で述べたようにそれは誤解以外の何らのものでもありませんし、しばしば自分(定型)に対する何らかの否定的なスタンスを相手が持っているということが魂胆を読み込むことの内容なので、それは定型の側に非常な心理的ストレスを産みます。違和感を解消するための解釈である以上、避けがたいところがあるのは確かです。しかし魂胆を読み込むことが誤解である限りそれは避けなくてはなりません。つまり定型の人にとって大事なのは、違和感が生じたところで立ち止まるということになります。
会話していて違和感が生じたら、特に整合性に関して違和感が生じているなら、相手が定型でなくASDである可能性があります。自分が全く想定していないような誤解を相手からされることが頻繁にあるという場合、自分がASDである可能性があります。よく問題が発生する相手と次に会話する機会があれば、自分と相手が何に躓いているのか、観察してみてください。
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